ソースカツ丼文化圏を旅する ~ 福井県 福井市 ~(1)

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第1回(全4回)

繁栄の歴史を持つ福井市

北陸三県で最も西に位置する福井県の県庁所在地、福井市。戦国時代から江戸時代にかけて、大変な繁栄の歴史を持っている街です。戦国時代には朝倉氏がおよそ100年間居城を置いた一乗谷が市内から10キロほどの場所にあり、朝倉義景の時代、京文化が花開いたこの地は戦国時代屈指の巨大都市で、「北の京」と称されるほどでした。朝倉氏以降は柴田勝家が一乗谷から離れ、現在の福井市に福井城を築き、関ヶ原の戦いの後に徳川ゆかりの松平家が同じ場所に新たに築城。城下町には多くの人が集まるいわば大都市といえるほど賑わいを見せていました。現在、堀と石垣に囲まれた本丸跡に県庁が建っており、その姿はある種不思議な、しかし勇壮な佇まいです。

歴史ファンにも人気の高いまちですが、カツ丼の世界においても福井市は大変重要な位置づけのまちなのです。福井市は「カツ丼といえば?」の問いに、「ソースカツ丼」という答えが返ってくる、日本を代表するソースカツ丼食文化のまちの一つ。なにしろソースカツ丼の発祥といわれるお店があるまちなのです。

動く恐竜モニュメントが迎える福井駅
動く恐竜モニュメントが迎える福井駅

蓋の閉まらない福井のカツ丼

まず福井のソースカツ丼についてご紹介しましょう。一般的なソースカツ丼のイメージはというと、ソースに浸ったもしくはソースがかかったとんかつがカットされ、ご飯の上に敷かれた千切りキャベツの上にのる、といった感じでしょう。これはいわば初めにとんかつありきで、丼にとんかつ定食をのせたような形のソースカツ丼です。

しかし福井のカツ丼は少しスタイルが違うのです。
標準的な福井のソースカツ丼は、概ね3枚ほどの薄めのカツがどんぶりの上に重なるようにのり、更に閉まらない状態で蓋がのって提供されます。そして千切りキャベツは見当たらず、ソース味のカツのみという、ある意味潔いスタイルなのです。さて閉まらない蓋は必要なのか、と初めて見た方は飾りの様に感じるかもしれませんが、実はこの蓋がないと食べるのに苦労することにすぐに気づきます。

蓋の閉まらない福井のカツ丼
飾りじゃないのよ蓋は

重ねのせられたカツは、そのままカツだけを食べるのならいいのですが、ごはんと一緒に食べようとすると、下のカツが邪魔をしてご飯にうまくたどり着くことができません。そこで周りのお客さんを見渡すと、福井市民は皆さん蓋を皿代わりにしてカツをいったん丼から避難させ、特製のソースがまぶされたご飯と一緒にソースカツを食べるというわけです。

大きなカツを皿代わりにした蓋へ取り分けて
大きなカツを皿代わりにした蓋へ取り分けて

福井ソースカツ丼のルーツはポークカツレツ

このスタイルになった理由を考えてみると、このカツ丼がいつ誕生したか、ということに関係していると推測できます。福井市にこのソースカツ丼のスタイルを広めたのは、大正2年創業の「ヨーロッパ軒」です。当初の開業は東京の早稲田近辺ですので発祥の地としては東京なのですが、その後関東大震災をきっかけに創業者のふるさと福井に移転し、福井のソースカツ丼文化の礎を築きました。

昭和40年代の「ヨーロッパ軒」
昭和40年代の「ヨーロッパ軒」

歴史的には、現在のような厚めのとんかつが生まれたのは昭和初期の上野近辺といわれており、「ヨーロッパ軒」がソースカツ丼を提供し始めたときには、まだ西洋料理の薄めのカツレツのスタイルが一般的。肉のボリュームを出すために、そのカツレツを複数重ねるというアイデアは非常に個性的に思えます。

とんかつの元祖「煉瓦亭(銀座)」のポークカツレツ
とんかつの元祖「煉瓦亭(銀座)」のポークカツレツ

またソースはビーフカツレツにはデミグラスソースという「西洋料理」のスタイルから、ポークカツレツそしてとんかつという形になっていく過程で、より日本人の味覚に合うさっぱりとしたウスターソースを使う「洋食」スタイルへと変化していきます。明治後期から大正、昭和の初期には粘度の高いとんかつソースはまだ登場しません。

ヨーロッパ軒を起源とする福井のソースカツ丼のソースのスタンダードスタイルはウスターソースをベースにした正統派のカツレツの流れをくむソースカツ丼といえるでしょう。

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