第1回(全4回)
歴史と文化が香る 会津若松市
福島県の西部、新潟県に接する会津地方の中核都市、会津若松市は2013年の大河ドラマ『八重の桜』の舞台として一躍注目を集めた歴史と伝統文化のまちです。室町時代には奥州最大の都市として発展し、江戸時代まで葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めました。居城は約千本の桜の名所としても知られる鶴ヶ城で、会津若松市はその城下町として栄えてきました。
幕末には戊辰戦争の舞台となりましたが、幸いにして戦火を免れた江戸から明治・大正・昭和初期の時代の歴史的建造物や洋風建築物など、現在も情緒ある街並みも残されています。会津漆器や会津絵ろうそくといった伝統工芸品もよく知られる、歴史と文化の香るまちといえるでしょう。
また東北きっての米どころでもあり水も豊か。酒どころとしても知られ、全国新酒鑑評会で、金賞受賞の蔵数が6年連続1位の福島県ですが、その約半分が会津の酒蔵なのです。食文化としては、山に囲まれたまちならではの郷土料理などが根付いており、新潟港から川の水運で運ばれた北前船からの乾物を用いたニシンの山椒煮や棒鱈の他、会津を代表する郷土料理の「こづゆ」に不可欠のホタテの干し貝柱もこのルートで入ってきていました。
ソース卵とじ…?もある会津のカツ丼
こうした歴史と伝統的な文化のイメージの会津若松ですが、少し意外にもご当地グルメとして注目されているのがソースカツ丼なのです。会津若松のソースカツ丼のスタンダードスタイルは、千切りキャベツの上にフルーティなソースにくぐらせたとんかつがのるというもの。
そしてもう一つ、日本で唯一ソース味の玉子とじカツ丼が提供されている地域でもあります。ソース味の玉子とじカツ丼は、個店単位では岩手や長野、福井などでも存在は確認していますが、地域としてソース味の玉子とじカツ丼が存在するエリアは他にはありません。
さて会津若松のソースカツ丼は、同じくソースカツ丼で有名な駒ヶ根や福井と比べるとソースの粘度が高く、2つの地域がウスター系のソースであるのに対して、こちらは中濃系のソースが使われているイメージです。ウスターソースを主流とし、お好みソースなどのどろっとしたソースをはじめとした様々なソースが存在する関西地方と比べると、東日本では中濃ソースのシェアが高く、ソースの食文化自体がかなり違います。そういう意味で会津のソースカツ丼は東日本を代表するソースカツ丼と言えるでしょう。
発祥については諸説あるようで、大正時代発祥説は、洋食のコックが賄いで鰻の蒲焼からヒントを得て、残った肉をカツレツに甘めのソースを作ったというもの。他に戦前に市内の食堂の店主が東京から洋食のコックを招き、ソースカツ丼を生み出したという説。また戦後間もない頃、東京においしいものを求めて旅に出た食堂の店主が出会ったソースカツ丼をアレンジして、オリジナルソースで煮込んだカツ丼に仕上げたといったものなどがあるようです。
どの説が有力かというのもはっきりしないのですが、少なくとも現在の会津の少しとろみのあるフルーティなソースのソースカツ丼と、煮込みソースカツ丼というソース味の玉子とじのカツ丼は、戦後創業の洋食店「中島グリル」(現在の「なかじま」)の影響を大きく受けていると考えられます。
ソースカツ丼文化が根付くまち
また会津のソースカツ丼はソースをくぐらせるだけではなく、大衆食堂などで、ソースで煮ていたというお店があるという話も聞きました。ソースカツ丼食文化の地域では、洋食店がその中核にあり、揚げたてのカツをどんぶりで提供するのが主流です。
高度成長期に全国的に定番となった卵とじカツ丼は、お昼時に混雑するそば屋などで、カツを一から揚げているのでは時間がかかりすぎ、揚げ直すのではカツが硬くなったり色が悪くなったりするという問題を解決する方法として誕生しました。カツを出汁で煮て卵でとじるというスタイルでお客さんに素早くカツ丼を提供していたのと同様に、会津の大衆食堂などで、ソースで煮る(玉子でとじない)というスタイルが誕生したとすれば、ソースカツ丼の根付いた地域だからこその食文化と言えるのかもしれません。