埼玉との融合も 武蔵野うどんとは②

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前回に続き「武蔵野うどん」とは何かについて考察する。西東京から埼玉を経て群馬へと広がる麦食地帯が、荒川を境に、土壌が米作に適さず米の代わりの主食として麦を食べた地域と米の裏作で収穫した麦を食べる地域とに大別されることが分かった。米作に適さない武蔵野と呼ばれる地域のうどんについて、前回の東京都小平市に続き、今回は東京都武蔵村山市、そして県境を越えた埼玉県所沢市のうどんについて調べてみた。

荒川の対岸・加須ではそば猪口のつけ汁が主流

まずは、武蔵村山市だ。村山かてうどんを通して武蔵村山を発信する任意団体、村山まかてうどんの会のホームページによれば、地粉(地元国産の小麦粉)を配合した冷たいうどんを温かいしょうゆ味の魚介だしのつけ汁に浸してかてと一緒に食べるものと規定し、村山かてうどんと呼んでいる。

「武蔵野うどん」は地粉を使った灰色がかった麺で知られる

では、村山にはどのような経緯でうどんが誕生したのか。武蔵村山で麦作が盛んになるのはやはり江戸時代に入ってからだ。武蔵野台地特有の水はけの良さから、水が乏しい分、肥料に頼る農法が盛んになる。大麦、小麦、粟、ひえなどの穀物を生産し、江戸で販売、その対価で肥料を購入するというモデルが確立する。水害が多く、肥沃だった荒川対岸とは、土地の栄養分の面でも対照的だったと言える。武蔵村山でうどんが食べられていた最も古い記録は江戸時代後期で、1835年の日記の中に「饂飩(うんとん)を出す」と書き記されている。武蔵村山の水不足は、昭和の初めに多摩湖の建設が始まるまで続く。

切れ端の存在は手打ちの「証」

水が乏しかったことが麦作、麦食の背景になっているのは、小平同様だ。それが故に、村山の食は自家栽培の大麦、サツマイモが中心だったという。そのため、小麦は一種のご馳走だった。正月や地域の祭事などハレの日の食事として、小麦を製粉した手打ちうどんややきもち、茹でまんじゅうなどを食べたという。現在でも、地域のお祭りや宴会のしめにはうどんが定番だ。

地粉を配合した灰色がかった麺

村山かてうどんの麺は、やはり地粉、地元国産の小麦、特に農林61号等の赤小麦を多く配合する。赤小麦の表皮が入っているため、茶褐色ややや灰色の麺になる。そのため小麦本来の風味が強く、タンパク質が多いのが特徴だ。かてで特徴的なのは、地元名産の小松菜の存在感だ。ほうれん草、ナスなども一般的。近年は、人気の「肉汁」との相性も考え、季節感のある揚げものなどを添えることもあるという。

路地裏の人気店「満月うどん」

実際に武蔵村山でうどんを食べてみよう。地元の人気うどん店「満月うどん」を訪ねた。昼時には、店頭に空き席待ちの行列ができる人気店だ。かけうどんや、天ぷらなどのサイドメニューも豊富だが、せっかくなので、最もシンプルなもりつけうどんを注文した。

「満月うどん」のもりつけうどん

うどんが盛られたざるには茹でた小松菜とモヤシも添えられていた。まさにかてうどんだ。特に小松菜が印象的だった。大根やほうれんそうとは違い、小松菜は茹でてもしっかりとした歯ごたえが残る。その食感が、しっかりとコシの強い手打ちの麺と良いコンビネーションなのだ。

まさしくかてうどん

麺はこれぞ武蔵野うどんと呼べそうな、少し灰色がかった、地粉で打った麺だ。そのコシの強さは、かなり強烈だ。歯の弱い人なら、噛み切るのに苦労するだろう。非常に噛み応えのある麺だ。あえて、固めに茹でているという。生地の切れ端も添えられているのが、手打ちの証だ。

武蔵野を走る西武電車

最後は所沢だ。所沢と武蔵村山、東京と埼玉の県境の近くには、武蔵村山市立歴史民俗資料館もある。食べ歩きの際にはぜひ立ち寄って、地域の歴史にも触れるといいだろう。所沢は、江戸時代元禄期に三富新田(さんとめしんでん)と呼ばれる大規模な開拓が行われた。新田の名が付いているが、やはり武蔵野台地特有の水はけの良すぎる地質から水田はほとんど作られていない。麦食の背景は、小平、武蔵村山同様に、米がとれなかったことにある。

武蔵野の焼きだんご

隣接する川越市がサツマイモで有名だが、かつては所沢でも日常の食は芋を食べていたという。なので、うどんはハレの日の食で、冠婚葬祭の際に、うどんを食べる習慣だったという。また、焼きだんごがうどんとともによく食べられている点も特徴的だ。だんごは米粉だが、もちろん水田が作れないので陸稲を粉にしてだんごを作っていた。米粉があることで、例えば正月三が日は、朝に雑煮を食べ、昼にうどんを食べたという。

埼玉県道126号沿いにある「柿屋うどん」

県境を跨いで埼玉県に入ったからだろうか。武蔵野うどんの地域でありながら、所沢では、小平や武蔵村山のかてうどんではなく、100年フードにも選ばれているように、肉汁うどんをアピールしている。所沢市まちづくり観光協会でも、肉汁うどんマップを制作、ホームページでも公開している。その中から、東京と埼玉県西部を結ぶ主要幹線、埼玉県道126号沿いにある「柿屋うどん」を訪れた。

「柿屋うどん」のなす肉汁うどん

メニューの筆頭にあったなす肉汁うどんを注文した。あっさりのかてうどんの後だけに肉のパンチの強さが際立った。うどんは、結構白く、また満月うどんに比べると歯には優しかった。念のため、近くの農産物直売所をのぞくと、白いうどんと黒っぽい地粉うどんの両方が店頭に並んでいた。

なすや肉の入った温かい汁で冷たいうどんを食べる

なすや肉の入った温かい汁と冷たいうどんの組み合わせは、荒川以北でもよく食べられている。小平や武蔵村山の「かてうどん推し」と比較すると、所沢の肉汁うどんは、同じ武蔵野ながら、やはり「埼玉らしさ」の現れなのだろうか。所沢と武蔵村山の間には狭山丘陵があり、けっこう山深い。また、東京の水瓶として建設された人造湖・狭山湖の水が、水の乏しい所沢には供給されなかったなどの歴史的背景を考えても、西東京よりも埼玉との結びつきが強まっていったことは想像に難くない。

所沢「手打ちうどん涼太郎」のミックスつけめん

大きな川や高い山を境に、つまり交通の途絶によって文化が途切れる事例は多い。武蔵野台としての歴史的な背景はともかく、所沢は埼玉県として、明治以降に行政などの面で、荒川以北とのつながりも強まっていったはずだ。そこに食文化の融合が起こっているのだろう。そしてそれが、西東京から埼玉、群馬に至る広域の麦食文化を分かりづらくさせている背景にあるのかもしれない。

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