炭鉱など、過酷な肉体労働に従事する人が多く住む北部九州には、エネルギー・スタミナを得るための個性的なご当地グルメがあると前回紹介した。それに加え、佐賀から筑豊にかけては、実は甘味の宝庫でもある。その背景の一つとなっているのが、スタミナ食と同様の、炭鉱での過酷な肉体労働だ。
筑豊を横断するシュガーロード
江戸時代、甘味は非常に貴重なものだった。現在、砂糖の原料の約3分の2は輸入でまかなわれている。しかも当時は、てんさいを栽培する北海道の開拓は進んでおらず、原料は主にサトウキビだった。年間平均気温が20度以上でないと栽培が難しいと言われるサトイキビの生産地は限られ、そのほとんどが沖縄県・鹿児島県の離島地域だ。いかに砂糖が希少だったか分かるだろう。
奄美大島などから海を渡ってきた砂糖は、かつて長崎に水揚げされ、そこから陸路で京の都に運ばれていた。そのルートは、長崎から佐賀県の小城、福岡県の飯塚、そして北九州に至る長崎街道、別名シュガーロードだ。比較的裕福だった鍋島藩(佐賀藩)の領地を横切ったこともあり、小城羊羹など、沿道には当時贅沢品だった様々な甘味が誕生する。
明治に入り炭鉱業が盛んになると、やはり長崎街道が走る筑豊にも次々と甘味が誕生する。
銘菓ひよこ、チロリアン、チロルチョコレート…現在でもおなじみのお菓子は、いずれも筑豊から誕生している。ではなぜ、筑豊で多くの甘味が生まれたのか?
カギになるのは低血糖だ。
羊羹のかたまり、黒ダイヤ
疲れたときに甘いものを食べるといい、とよく言われる。血中の糖分は車のガソリンのようなもので、身体を酷使すれば血糖値は下がってしまう。そして、血糖値が下がると身体の動きが悪くなる。競技時間の長いゴルフや登山で、運動中にもかかわらず、バナナやチョコなどをつまんでいるのは、血糖値の低下を防ぐためだ。
アスリート級に身体を酷使する炭鉱労働者も条件は一緒。山に入る際には、腰に甘いものをぶら下げて坑道に入り、疲れるとそれをかじってしのいでいたという。高温多湿の坑道の中、全力で工具を振り回し、長時間にわたって石炭を掘る。そうなると、ゴルファーのようなひとかけらのチョコレートでは、仕事が終わるまでもたない。食べる量も、それ相応に多くなる。筑豊の甘味には、そんな炭鉱で働く人たちのくらしぶりが映された巨大スイーツがいくつかある。
その一つが黒ダイヤだ。掘れば掘るほど金になる石炭を、当時黒ダイヤと呼んだ。黒ダイヤの見た目は、まさに岩、石炭だ。大きな黒いかたまりの正体は、実は羊羹。普通はお茶請けに薄く切って食べるものだが、黒ダイヤはまさに石炭のような大きさ。ずっしりと重い。これを丸かじりにする。
本来低血糖値対策で大きくなった筑豊の甘味だが、やがて、炭鉱で財を成したお大尽たちが見栄を張ってさらに巨大化させるようにもなる。
直径29センチの成金饅頭
飯塚には観光名所として知られる大邸宅がある。NHKの連続テレビ小説「花子とアン」に登場する炭鉱王のモデルになった伊藤伝右衛門の屋敷だ。その豪華さから、炭鉱経営者の裕福ぶりがうかがえる。伊藤伝右衛門ら炭鉱で財を成した人たちは日夜その屋敷に客を招き、贅を尽くした宴を催した。終宴後は土産に地元の菓子を持たせるのだが、それが見栄の張り合いでどんどん大きくなっていく。そして生まれたのが、直方の巨大な成金饅頭だ。
成金饅頭はどら焼きの皮でうずら豆の白あんをはさんだもの。直方の菓子店「大石本家」では、直径9~18センチの成金饅頭を販売するが、特別な注文があれば29センチ、LPレコード大の成金饅頭を作ってくれる。かつてはもっと大きなものも作っていたという。
銘菓ひよ子、チロルチョコレートも筑豊発祥
こうして筑豊に根付いた甘味文化はその後も多くの定番スイーツを生み出す。
銘菓ひよ子は、1912年に飯塚の吉野堂で誕生した。東京のお菓子としても知られるが、筑豊が生まれ故郷だ。ひよ子の形は、大人にも子供にも愛される菓子を目指し考案されたという。飯塚は養鶏が盛んだったことも背景にある。
そしてコンビニエンスストアでおなじみのチロルチョコレートも田川が発祥の地だ。1903年創業の松尾製菓が、1962年にチョコレートに参入、売り出したのがチロルチョコレートだった。
銘菓ひよ子もチロルチョコレートも、筑豊に甘味が深く根付いていたからこそ誕生したお菓子だ。
現在は、チロルチョコレートを使ったレトルトカレーも開発され、東京・秋葉原にあるチロルチョコレートのアンテナショップでも販売されている。カレーの箱の裏側には、田川とその炭鉱の歴史の紹介が印刷されている。
京都や金沢の和菓子とは違う庶民的な甘味には、筑豊で働く人々のくらしぶりが映されている。