ソースカツ丼文化圏を旅する ~ 福島県 会津若松市 ~(2)

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第2回(全4回)

会津若松スタイルはスタンダード?

ソースカツ丼の東の雄、会津若松のソースカツ丼は、もともと会津地方以外では県内でもあまり知られていなかったようですが、1980年代後半にご当地グルメ本の紹介などで徐々に県内全域など世の中に知られるようになっていきました。そして首都圏をはじめ、全国に広く知られるようになったのは、2004(平成16)年に結成された「伝統会津ソースカツ丼の会」の活動が大きく影響しているといえるでしょう。

首都圏で時々見かけるソースカツ丼は千切りキャベツととろみのある中濃ソース的な甘めのソースで、会津若松スタイルがスタンダードになっているように感じます。単にとんかつをのせた丼というのなら、濃厚なとんかつソースがかかっていてもよさそうです。しかしとんかつ定食ではなく、あえてソースカツ丼として出されるのであれば、ご飯にも合う専用のソースであるべきで、広く知られるようになった会津若松のソースカツ丼がモデルになっていたとしても不思議ではないでしょう。

会津のソースカツ丼 そのルーツとは

発祥については、大正・戦前・戦後に提供が始まったという説があると前回紹介しました。大正や戦前にすでに現在のような会津のソースカツ丼のスタイルが存在したのだとすれば、それが発祥といえるのでしょうが、店名がはっきりしておらず、またどのようなカツ丼が提供されていたのかも定かではありません。

ちなみに大正時代の発祥だとすれば、まだ洋食の薄いポークカツレツのスタイルだと考えられます。また戦前の昭和初期といえば、東京の上野近辺でやっと厚い豚肉を揚げる技術がうまれ、カツレツがとんかつと呼ばれるようになる頃で、会津で同様のとんかつがすでにあったとは考えにくく、いずれにしても今の会津のスタイルに変わっていった時期があるのではないかと考えられます。

いくつかの説がある以上、おそらく卵とじではなくソースカツ丼が存在していたのは事実だと思われます。しかし他のソースカツ丼地域の様に発祥の店があり、その店から広がっていったという歴史は確認できていません。現在も人気店である「なかじま」や「白孔雀食堂」は、戦後洋食からスタートし、現在もソースカツ丼の人気店として知られています。会津のソースカツ丼は、戦後、こうした洋食店のメニューから広がっていったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

ちなみに会津の個性的なソースカツ丼文化を代表するメニューともいえるソース卵とじは「なかじま」で昭和20年代後半に、ソースカツ丼より先にメニューに出されたそうです。洋食店で卵とソースが出合う料理というのは、全く考えられないものではないのかもしれませんが、それにしてもかなりユニークです。漆器や醸造業が盛んだった会津には全国各地を行脚した人々が料理に関しても最新の情報を持って帰ってきていたそうです。先代は、そうしたお客さんたちを相手に、料理は「前味・中味・後味」と仕込みから調理・提供までこだわっており、美味しい洋食を提供しようと奮闘していたそうです。アイデアが光るソース卵とじカツ丼も、揚げたてのソースカツ丼もそうした努力で評判を得ていったのでしょう。

日本で進化した「ソース」

会津のソースカツ丼は粘度の高めのソースが特徴ですが、東日本エリアで根付くとろみのある中濃ソース文化が定着しています。ソースといえばウスターしかなかった時代から、昭和26年にとんかつソース、昭和41年に中濃ソースがブルドックソースから発売されます。イギリスで誕生したウスターソースですが、とろみのあるソース、中でも中濃ソースは日本独自で進化を遂げ、その濃厚な甘みと香りは海外でも評判で、数多く輸出もされています。

今や世界にも知られる中濃ソースの文化圏にあり、首都圏のスタンダードモデルのソースカツ丼の源流かもしれない会津のソースカツ丼。是非現地で食べ比べをしてみてください。

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