福島県の太平洋側を浜通りと呼ぶ。暖流と寒流がぶつかる好漁場で、その辺りで獲れる魚介類は昔から「常磐もの」と称してかつての築地でも高値で取引されてきた。その常磐ものを食べたくて、いわき市に向かった。
郡山から常磐自動車道に乗って1時間20分。同市小名浜港に到着した。なぜ小名浜港かというと、そこには観光客が押し寄せる道の駅「いわき・ら・ら・ミュウ」があるからだった。平日の昼間だというのに駐車場は車で埋まり、観光バスが何台も並んでいる。

東日本大震災から1年後の2012年3月、私は水戸から八戸まで被災地を北上する旅をした。そのときのら・ら・ミュウの様子をこう書いている。
「震災前は年間200万人が訪れたというから、相当の賑わいだったのだろう。しかし私が訪れたときは平日の午前中ということもあって閑散としていた。店ごとの法被を着た男女が盛んに呼び込んでいるのだが、肝心の客の姿がない」
「いまも(県内6漁港は)操業自粛が続いている。つまり福島県内に地元の魚介類は流通していない。ら・ら・ミュウの鮮魚売り場にあった魚はすべて県外から陸送されたものである」
震災から14年、この道の駅はいわき市を代表する観光スポットになった。

常磐ものは鮮魚だからクーラーボックスでも持っていないと買いにくい。その代わり飲食店が並ぶ一角は人で溢れていた。店の前に張り出されたメニュー写真の前に人だかりができている。前の人の肩越しにメニューを見るとマグロ、ウニ、イクラのオンパレード。ほかの店もそうだ。しかも丼の高さを競い合っている。若いカップルが「どの店にする?」と相談している。高齢の夫婦は「こんなの食べきれない」と言いながら立ち尽くしている。だがマグロもウニもイクラも私が目当てにしている常磐ものではない。
「2階にも店があったな」と思って階段を昇ると「3・11 いわきの東日本大震災展」の看板が目に飛び込んできた。13年前の旅の途中でこの展示を見ていた。それからずっと訪れる人々に惨状を伝え続けていたのだ。

死者310人、行方不明者37人、全壊7637棟。大きな被害が出ていた。中に入ると段ボールで囲った狭い空間に毛布が置かれている。避難所での様子を再現したものだった。私の後ろから声が聞こえた。
「こんなところで3か月も暮らしたんだよ」
被災した市民が遠方からの知人に話している。

透明なケースの中に塩結びの食品サンプルがある。ここに来たのは震災から1年しかたっていなかったから惨事の記憶は生々しく、このサンプルの横に添えられた短い文章を読んで涙したことを思い出した。階下のお祭りのような賑やかさと2階の展示のギャップに少し戸惑った。

さて常磐ものだ。昼時を少し過ぎたころ、ら・ら・ミュウから北に20キロほど離れた「道の駅よつくら港」に行った。この辺りは人気観光地ではないから比較的地元の人の利用が多い。個店が並ぶのではなくフードコートになっている。その中の「寿司処和」の「特選にぎり寿司」(税込み2300円)を食べることにした。「四倉、久之浜港より仲買人が仕入れた常磐もの」が売りの店だ。ビジュアルはご覧の通り。

この内容でこの値段。はるばる来た甲斐があったというものだ。

野瀬泰申(のせやすのぶ)/ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会(愛Bリーグ)会長
1951年福岡県生まれ。食文化研究家。東京都立大卒後、日本経済新聞入社。東京・大阪社会部、大阪文化部長、特別編集委員・特任編集委員を歴任。大阪勤務時代に「ウスターソースで天ぷらを食べる」人々を見て「食の方言」に気づき、取材を続けている。2008年までは日本レコード大賞の審査委員・副審査委員長も務めた。「ご当地グルメでまちおこしの祭典!B-1グランプリ」主催団体「ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会の設立に関与。2018年より現職。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。




