液体調味料に船は不可欠?

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酢としょうゆ。明治以前から日本の食卓で愛され続けた和の調味料だが、全国各地に地酒の蔵が点在する日本酒と比べ、ともにナショナルブランドを持つ大手メーカーの市場占有率が高い商品でもある。現在ほど物流が発達していなかった明治以前、酢やしょうゆはどのようにして全国に流通し、寡占化が進んだのか。

食卓に欠かせないしょうゆ
食卓に欠かせないしょうゆ

そのカギを握るのが水運だ。

物流が発達していなかった時代、実は液体は運びづらいものだった。常に形を変え、流れ出てしまうため、持ち運びには容器が必要になる。プラスチックもなければ、タンクローリーもない時代、液体を持ち運ぶには陶器や木桶などの容器が必要だった。陶器は輸送中に破損するリスクもあることから、持ち運びはもっぱら桶だった。しかし、円筒形の桶は運ぼうとするとどうしてもデッドスペースが大きくなってしまう。そもそも液体は容積当たりの重量も非常に重い。つまり運びにくいものだったのだ。

和歌山県新宮市のサンマのなれ寿司
和歌山県新宮市のサンマのなれ寿司

19世紀初めの江戸で、現在の握り寿司の原型となったはんなれ寿司が誕生した。魚を米と一緒に乳酸発酵させて作るなれ寿司に対し、乳酸発酵の酸味を酢で足す寿司の作り方だ。別名はや寿司ともいう。これに目を付けたのが、愛知・半田村の酒造家・中野又左衛門だ。江戸に赴き、寿司ブームを肌で感じ取った又左衛門は、酒造業のかたわら、酒粕を原料とした粕酢の製造をはじめる。そして、酒で培った知多の海運力と販売ルートを活かし、船で江戸に粕酢を送り込んだ。又左衛門の粕酢は、やがて江戸の寿司屋でも使われるようになる。これが現在に至る、全国ブランド・ミツカン酢のルーツだ。

江戸前の握り寿司
江戸前の握り寿司

半田が位置する知多半島は穀物が豊富で、水利もよかったことから醸造に適していた。そこで酢を大量生産し、大消費地の江戸に運んだ。しかし当時の帆船にとって、太平洋は荒海だ。蒸気船以前の海運は、日本海側を陸地に沿って航行する北前船がメインだった。にもかかわらず、知多半島と江戸を太平洋経由でショートカットして酢を運ぶことで、ミツカンは江戸の市場を開拓した。運びにくい液体の酢だからこその戦略だった。

MIZKAN MUSEUMでは、海上輸送の歴史を展示
MIZKAN MUSEUMでは、海上輸送の歴史を展示

ミツカンの発展と海上輸送の関係については、ミツカンの本社に隣接するMIM(MIZKAN MUSEUM、現在コロナ禍のため休館中)で詳しく知ることができる。徒歩か馬だった陸上交通に対し、海上交通がいかに大量輸送の手段として適しており、それがマーケティングに効果的だったかを知ることができる。

しょうゆの醸造
しょうゆの醸造

そして、しょうゆ。現在のシェアトップは、キッコーマン。2位はヤマサ醤油だ。キッコーマンは千葉県の野田市、ヤマサは同じく銚子市(4位のヒゲタ醤油も)が本拠だ。ともに江戸川、利根川に近い、水運に恵まれた町だ。そう、運びにくい液体を出荷するには最適のロケーションなのだ。

鉄道や道路が発達する以前、水路がいかに重要な交通路だったかということだ。特に江戸時代の東京の市街地だった下町に通じる江戸川や荒川は、非常に重要な交通路だった。

川沿いに庫が建ち並ぶ栃木のまちなみ
川沿いに庫が建ち並ぶ栃木のまちなみ

歴史が残した足跡は、酢やしょうゆの寡占化だけではない。小江戸と呼ばれた埼玉県川越の繁栄は、新河岸川の水運の中継地点だったことによる。ほかにも千葉県の佐原、栃木県の栃木なども恵まれた水運によって栄えたまちだ。さらには現在の東京スカイツリーも水運との縁が深い。

隅田川沿いにそびえる東京スカイツリー
隅田川沿いにそびえる東京スカイツリー

地元の鉄道を買収するなどして北関東に毛細血管のように支線を持っていた東武鉄道は、各地の産物を現在東京スカイツリーが建つ旧業平橋駅の貨物ターミナルで隅田川の水運に積み替えていた。そのために広大な貨物ヤードがあり、それが後に東京スカイツリーに転用された。

いつの時代もヒット商品の誕生には綿密なマーケティングがあり、物流はそのカギを握る重要なポイントの一つだ。調味料とてその例外ではない。

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