6月初旬、会津若松を訪ねた。この地を最初に訪れたのは20年前、いやもっと以前だったかもしれない。ソースカツ丼の取材に来て、地元の人から教えられた「卵とじのソースカツ丼」を食べた。いわゆるソースカツ丼と煮込みカツ丼のハイブリットだ。今回はカツ丼ではなく、会津の歴史と風土を物語る食文化を探るのが目的だ。

古い街並みを残す「七日町通り」を散策し、昼過ぎに手打ちそばを出す「二丸屋武蔵亭」に入った。注文したのはメニューに「会津古来の天ぷら」の添え書きがある「武蔵天ざる」(税込み1700円)だ。
天ぷらはエビや野菜を除いて撮影した。右からまんじゅう、薬用ニンジン、スルメ、ニシン。まんじゅうの天ぷらは会津の郷土料理。正確な発祥の時期や経緯は不明のようだが、想像するとお彼岸や各家庭の法事でこしらえたまんじゅうを長く食べるために考案されたのではないか。長野県の天ぷらまんじゅうと同じもののようだ。

薬用ニンジンは「お種人参」のことだ。朝鮮人参、高麗人参ともいう。江戸幕府は朝鮮から輸入していた人参を国産に切り替えるため、各藩に種を配って栽培を奨励した。会津藩はこれに力を入れた結果、藩財政が潤った。明治以降も栽培技術は伝承され、昭和30年代には栽培農家が300を超えたという。やがて韓国や中国からの輸入品に押されて風前の灯に。しかし近年、復活の機運が芽生えている。本来は薬用の植物だから食べてみると少しの苦み、土臭さはあるものの、十分に美味しい。

会津は海から遠いので海産物は乾物の状態で運ばれてきた。スルメもその一つだ。時間をかけて水で戻し、軟らかくなったものを天ぷらにした。しかしスルメは高級食材になった。水で戻すのも手間がかかる。そこで生のゲソを天ぷらにした。許容範囲だ。
隣のニシンもかつては身欠きニシンとして入ってきた。スルメ同様の手間をかけて天ぷらにしただろう。目の前にあるのは生のニシンの天ぷらだが、これも許容範囲だ。
海が遠い土地には海産物への憧れが滲む食べ物が多く残る。冠婚葬祭の折に会津塗の器で食べる「こづゆ」が乾燥貝柱で出しをとるのも、その一例だ。
武蔵亭には売店があって、そこで自家製の「鰊山椒漬」を売っていた。会津の飲食店や居酒屋にはたいていこれがある。

その夜の宿のお茶請けは「会津 山塩大福」だった。会津には往時、いくつかの街道を通じて新潟から海塩が運ばれていたが、そこは名だたる豪雪地帯だから、冬は塩が途絶える。そこで塩分を含んだ温泉を煮詰めてつくったのが山塩だ。会津の道の駅などで売っているし、「山塩ラーメン」の看板やメニューを頻繁に目にする。

会津城は戊辰戦争で会津藩が敗北した後に破却されたものの、昭和40年に鉄筋コンクリート造りで再建された。明治初年に撮られた城の写真を基に復元されたから、往時の姿をほぼ正確に再現しているという。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」が描いたように、会津戦争は1か月に及ぶ苛烈なものだった。敗北した会津藩は領地を没収され、青森県の下北半島に「斗南(となみ)藩」と名を変えて転封される。そこは不毛の地で移住した藩士とその家族には過酷な運命が待ち構えていた。だからだろう。会津若松の街を歩いていると戊辰戦争の記憶が消えていないのではないかと思わせる事物に出合う。このお寺のように。

さて翌日、帰路の途中にあった農産物直売所「まんま~じゃ」に立ち寄った。そこで目にしたのが「ぶすの実」の酢漬けだ。家に戻って調べてみると、「ぶす」とは野ぶどうとか馬ぶどうと呼ばれるもので、会津では昔から酢漬けや焼酎漬けにして食べていた健康食品だった。名前は気になったが、酸っぱいものが苦手なので買わなかった。




