牛乳をご飯のおかずに 安房鴨川のちっこ (トップ写真) 酪農、生乳というとだれもが北海道を思い浮かべるだろう。一方で、あまり知られてはいないが、日本の酪農発祥の地は北海道ではない。江戸時代、8代将軍吉宗の時代に、日本で初めて酪農を始めたのは、現在の千葉県鴨川市の山間部にある嶺岡でだ。そして、その酪農発祥の地・嶺岡には、地元ならではの伝統の牛乳料理がある。ちっこだ。嶺岡豆腐、チッコカタメターノなどとも呼ばれている。 (写真:日本酪農発祥の地の石碑) 嶺岡には嶺岡牧と呼ばれる、軍馬の放牧地が戦国時代に作られ、徳川幕府成立後は幕府直轄の放牧地となっていた。吉宗は牛乳を煮詰めて生キャラメルのようにした「醍醐」を普及させることで国民の寿命を延ばしたいと考え、明治以前から「薬食い」つまりは治療の一環として肉食を続けていた岡山の美作から白牛を3頭導入する。嶺岡牧ではこの白牛の数を増やすとともに、「醍醐」を「白牛酪」と名付け、日本橋の「玉屋」などで販売するようになった。これが、日本の酪農の始まりとされている。 (写真:実際にちっこを作ってみた) ちっこは、色味等で製乳工場に販売できない初乳を「捨てるのはもったいない」と、固めて食べ物にしたことから誕生した。正式な名前は、ちっこかためたの。安房地方では、牛乳のことを「乳っこ」と呼び、それを固めたものというそのまんまの名前だ。これを略してちっこやちっこ豆腐、嶺岡豆腐と呼んだり、最近ではカタカナでチッコカタメターノとも呼ばれている。 (写真:しょうゆで味付けしたちっこ) そもそものちっこは、牛乳臭が強く、これを抑えるために、ネギやタマネギと一緒に甘辛く味付けして食べられていたという。しかしその後、その栄養価の高さが注目され、さらに初乳は栄養素に富むことも知られるようになり、学校給食に牛乳が取り入れられた1960年代以降、嶺岡を中心にちっこ料理が近隣に広がっていった。 (写真:温めた牛乳に酢を入れると分離する) その作り方は意外に単純だ。ひと言で言うと、牛乳を化学反応を用いて水分と固形成分に分離し、固形成分を固めて作るものだ。牛乳をかき混ぜながら熱し、沸騰したら酢を入れる。水分と固形分が分離したらざるに空け、固まるのを待てば出来上がりだ。沸騰させて作ればしっかりした固さになり、冷たいうちに酢を入れればふわふわの食感に仕上がるという。また、蒸して作れば、水分ごと固まるという。乳酸菌を加えた後に酵素で凝固して作るカッテージチーズを思い浮かべてもらうと分かりやすいだろう。 (写真:これをざるで濾せばちっこの出来上がり) 千葉県以外でも嶺岡豆腐と呼ばれて食べられているところもあるが、本場のものとは別ものであることが多い。化学反応ではなく、ゼラチンやくずを使って牛乳を凝固させたものを嶺岡豆腐と呼んでいることが多いのだ。つまりは、杏仁豆腐や牛乳かんと同様ということになる。 (写真:ハードリカーのつまみにも) 自宅で牛乳と酢でちっこを作ってみた。驚くほど簡単にちっこができあがった。余熱を冷ますとともに、しっかりと水分を抜くため、キッチンペーパーの上で半日ほど置いた後に食べてみた。加糖していないのに、ほんのりと甘い。牛乳が本来持つ甘さなのだろう。繊細な実にいい甘さだ。スイーツとしてだけでなく、そのままウイスキーのロックなどハードリカーのつまみにもなると感じだ。 (写真:「みねおかいきいき館」の嶺岡豆腐) 実際に嶺岡を訪れ、本場のちっこを食べてみよう。まず訪れたのは「千葉県酪農のさと」だ。嶺岡牧の跡地で、日本酪農発祥の地の記念碑が建てられ、酪農の歴史を展示する資料館や嶺岡乳牛研究所が置かれている。その中にある「みねおかいきいき館」で食べることができる。「江戸のデザート嶺岡豆腐」の幟が目印だ。 (写真:さけるチーズと島豆腐の間のような食感) メニュー名は嶺岡豆腐。ブルーベリージャムが添えられていた。まるで、ヨーグルトのようだ。まずは嶺岡豆腐だけを食べてみる。やはりほんのりと甘い。その食感は、絹ごしかもめんかと問われると、個人的には島豆腐と答えたい。かなり硬い、というか粘り気がある。さけるチーズと島豆腐の中間のような食感と言ったらいいだろうか。 (写真:ちっこ本来の上品な甘さとジャムの甘さが融合) 甘さは実にソフトだ。上品な甘さで、ブルーベリージャムと一緒に口に入れるとほどよいデザートになる。甘すぎないところがいい。そしてもっちりした食感が実に心地いい。正直言って乳製品のデザートとして今まで味わったことのない食感、味だ。これは美味しい。 (写真:みねおかとうふ黒胡麻のソース) 事前にネットで調べたのだが、嶺岡周辺でちっこ、嶺岡豆腐提供店はなかなか見つからなかった。試しに鴨川市の総合交流ターミナル「里のMUJIみんなみの里」に立ち寄ってみた。カフェのメニューに「みねおかとうふ黒胡麻のソース」の文字を発見。早速注文してみる。 (写真:黒い胡麻ソースの下には真っ白なちっこ) ちっこ、みねおかとうふの上には真っ黒い胡麻ソースと砕いたビスケットがトッピングされていた。ちっこの食感は「みねおかいきいき館」同様かなりしっかりしている。甘さもソフトだ。一方で黒胡麻のソースはしっかり甘い。ちっこの優しい甘さと胡麻ソースのパンチのある甘さがいい取り合わせだ。ちっこの歯に粘り着くような食感とガリガリとしたビスケットの食感のコントラストも嬉しい。 (写真:嶺岡ちっこ丼) さらに嶺岡山地の向こう側、房総半島のほぼ真ん中にあり、東京から一番近い棚田として知られる大山千枚田へ向かった。ここにある「古民家レストラン棚田カフェごんべい」で、スイーツではないちっこ料理が食べられるからだ。ネット情報ではチッコライスバーガーがヒットしたが、実際に訪れると、メニューには嶺岡ちっこ丼、さらには嶺岡ちっこ米めんもあった。どうやら嶺岡なべにもちっこが入っているようだ。 (写真:つゆだく) ニンジンやキャベツなどの野菜やしらたきとともに、スイーツよりもやや柔らかめのちっこがしょうゆ味で煮込まれている。甘くないちっこは、実にしょうゆによく合うのだ。「ちっこ煮」はつゆだくになっていて、丼の底にはつゆがたっぷりと溜まっている。そこからほんのりと牛乳の香りが立ち上がってくる。違和感はなかった。実にいいマリアージュだ。 (写真:チッコライスバーガー) せっかくなので、チッコライスバーガーも注文し持ち帰って食べた。こちらは焼いただけだろう、かなり淡泊なちっこだった。ハンバーガーのパティとしては、鶏のミンチのような食感だった。丼で食べたものよりやや歯ごたえがある感じがした。甘みや塩味を加えないと、実に淡泊な味になる。 (写真:パティのちっこは淡泊な味) かつては、北海道に次ぐ全国2位の酪農を誇ったこともある千葉県だが、農林水産省の発表した2024年の牛乳乳製品統計調査によれば、都道府県別の生乳生産量は、北海道が1ケタ違う頭抜けたトップで、以下栃木県、熊本県、群馬県と続き、千葉県は第5位となっている。しかし、さすがは発祥地だけに、千葉、鴨川、嶺岡ならではの牛乳の食べ方を体験できた。東京のすぐ近くにこんな美味が隠れていたなんて…。房総半島を訪れる際には、ぜひ嶺岡に足を伸ばしてほしい。